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コーヒー雑学

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コーヒー雑学

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●コーヒーの発見伝説
コーヒーの発見伝説は数説ありますが、有名なものはキリスト教の国エチオピアで発見されたという伝説と、イスラム教の国イエメンで発見されたという伝説の2説。この2説ともに13世紀頃の話として伝わっていて、いずれもコーヒーは秘薬として登場しています。
史実として残っているものは曖昧な部分が多く、資料によって年代が多少前後することがありますが、おおまかに2説を説明致します。

有力説その1、アラビア~イエメンの僧オマール発見説
人々から大変敬われていたイスラムの聖者シーク・オマールは、ある日領主の誤解によって町を追放され、イエメンのオーザブ山に逃げ込む。そこでオマールは山中をさまよい、食べる物もなく飢えていた時に一羽の鳥が赤い木の実をついばんでいるのを見つけました。オマールは、迷わずその赤い実を口にした。その実はお世辞にもおいしいと言えるものではなかったが、しばらくすると不思議なことに飢えがいやされ、さらに驚くことに、疲れきっていたオマールの体から疲労がサッと消え気分が爽快になったのだ。一方その頃、オマールを追い出した領主の町では病気が猛威をふるい人々を苦しめていた。人々は、オマールが町にいた時に、彼の祈りによって多くの人々が助けられたことを思い出し、すがるようにオマールを追ってオーザブ山に分け入り助けを求めた。人々から町の惨状を聞いて彼は深く悲しみ、町の人々のために祈った。そして、自分の体に不思議な力を与えてくれた赤い実の煮汁を人々に与えた。すると多くの人々が、オマールに起こった奇跡と同じように、病からあっという間に回復した。人々は救われ、町はよみがえったのだ。このことからオマールは以前にもまして崇められ、町に迎え入れられた。この町とは、後にコーヒー豆の積み出し港となり、コーヒー豆の名前としても有名なモカの町。そしてオマールは、この地名をとって「モカの守護聖人」と呼ばれるようになったという。ちなみに伝説に出てくる不思議な「赤い木の実」とは、言うまでもなくコーヒーの実であります。

有力説その2、エチオピア~ヤギ飼い少年カルディ発見説bean
「修道士さま、これは奇跡の実です!ヤギとこの僕に奇跡が起こりました!」興奮した面持ちで話すヤギ飼いの少年の手には、その奇跡を起こすという赤い実が握られていた。この少年の名前はカルディ。アラビア半島とアフリカ大陸が出会う場所での物語。この地こそ私たちが愛するコーヒーの生まれ故郷というべき、有力説の場所であった。ある日のこと、ヤギ飼いのカルディは放し飼いにしていたヤギたちが夜になっても元気に飛び回っていることに驚いた。「なぜだろう?いったいどうしたんだろう?」不思議に思ったカルディがヤギたちをしばらく観察していると、ヤギたちがみな赤い実を食べていることに気付いた。そこで勇気を振り絞ってカルディも試しにその実を口にした。するとどうだ、全身に活力がみなぎってきたではないか。これに驚いたカルディは、修道士の元にかけつけ、前述のようにこの奇跡を告げた。カルディの話を聞いて修道士は、その実があれば夜の長い祈りを襲う睡魔にも打ち勝つことができるのではないかと考え、その実を口にした。結果はカルディの言った通りだった。そしてその後、この赤い木の実が修道士たちの間に「睡魔に打ち勝つ秘薬」として広まっていったのだった。ちなみに秘薬として使われていた「赤い木の実」とは、言うまでもなくコーヒーの実であります。

 

●モカコーヒーの採れる国ってエチオピア?それともイエメン?
モカ港から輸出されるコーヒーの名前は「モカ」として呼ばれる。エチオピアもイエメンも貿易港としてモカ港を使用している、又コーヒーの発見伝説もエチオピアのヤギ飼い少年カルディ発見説なのか、イエメンの僧シーク・オマール発見説なのかと論争されてきました。ちなみに私は、2006年12月にエチオピア・モプラコ社のヤンニ・ジョルガニス氏の話を聞く機会があり、彼の説明を簡単にご紹介致します。エチオピア・モプラコ社(MPC、MOPLACO HARAR STAR)とはエチオピアのコーヒー貿易会社でありSCAJ(日本スペシャルティコーヒー協会)2007イベントのシルバースポンサーでもあります。
まずモカとはイエメンは「MOCCA」と表記し、エチオピアは「MOCHA」と表記する。ちなみにエチオピアのMOCHAと最初に名付けたのは、日本の大手某コーヒー会社の社長がMOCでモカ・HAでハラーの意味で名付けたという。ではどっちが本当のモカなのか?答えは簡単!全日本コーヒー商工組合連合会では、モカ港から出荷されるアラビカコーヒーをモカという名で表記もしくは呼んで良い事になっている、モカ港に隣接する両国のコーヒーは両方ともモカである。又、エチオピアには9世紀からコーヒー発見・飲用の資料がある。当時この国はアビニシアと称されていたので今でも樹齢が100年以上経過しているコーヒーの木を「COFFEEA ABYSSINICA、コフィア・アビシニカ」と呼びマザーツリーとも呼ぶ。彼らによると、16~17世紀にアラビア人がこの木の種をイエメンに持ち帰って栽培、モカ港から輸出した。言葉の訛りからイエメンでは「コフィア・アラビカ」と呼ぶと主張していた。だからコーヒーの発祥地はエチオピアで、本来ならコフィア・アビシニカと称するべきだ!・・・らしい。
結局アラビカコーヒーの発祥の地は、イエメンなのかエチオピアなのかという論争も、多くの学者の史実に基づいた研究から、今ではエチオピアが発祥の地ということで落ち着いているのが現状である。

 

 

●コーヒーは、なぜ珈琲と書くのか?
コーヒーを表す名前の語源はコーヒー原産地エチオピアの地方名カッファ「Kaffa」に由来すると考えられます。コーヒーは国別ではフランス語「Cafe」、スペイン語「Cafe」、イタリア語「Caffe」、ドイツ語「Kaffee」、フィンランド語「Kahvi」、オランダ語「Koffie」、ギリシャ語「Kafes」、英語「Coffee」と書きます。
日本では、コーヒーの事を「珈琲」と漢字で書く。なぜ漢字で「珈琲」なのか?この漢字を当てたのは、江戸時代後期の蘭学者・宇田川榕庵とか。「珈」はかんざしについた玉、「琲」はそのかんざしの玉をつなぐ紐のことです。赤いコーヒーの実が枝に連なった情景を、女性の髪飾りに見立てるなんて、なかなか粋な学者さんだったようですね。ちなみに他にもこんな当て字もあります「歌兮」・「可喜」・「哥非乙」・「滑否」・「過希」・「香湯」・「豆の湯」これみんな「コーヒー」なんだって。

 

 

●冷珈(レイコー)
関西地方でアイスコーヒーの事を冷珈と呼ぶ。
弊社の店頭でも『冷珈ちょうだい』と言われるお客様もいらっしゃります。
冷珈の語源の由来は、むかし暑い日の大阪の縁日の屋台で、冷やした珈琲を『ひやっこ~い。冷やっこ~いコーヒー』と売ったのが始まりと書物で呼んだ覚えがあります。
『冷やっこ~い珈琲』→『冷やっ珈琲』→『冷珈』らしい。
これが世界初のアイスコーヒーなんですよ!
アイスコーヒーを考えたのは日本人で、珈琲を冷やして飲むのは日本文化だったんです。

 

 

●日本で最初にコーヒーを飲んだのは誰か?
日本で最初にコーヒーを口にしたのは、織田信長であるとか、豊臣秀吉であるといった説もあるが、記録に残っているのは、江戸時代末期、長崎出島で当時貿易に関係した人が飲み始めたのが最初という説が一般的。そして、その出島に持ち込まれたヨーロッパの医学書の中に、コーヒーの効用が書かれていたという。
日本人がコーヒーの効用を活字にした記録は他にもあり、やはり江戸時代末期にあった。それは当時の函館奉行のある通達である。1800年代、蝦夷地には宗谷をはじめとする各地にアイヌ民族との交易所があったという。1806年、樺太と利尻の交易所がロシア海軍に襲われた。その事態を重く見た幕府は、蝦夷地を直軸地とし、寒さに強い東北の諸藩士を北方警備に派遣した。津軽藩士が第一陣として警備にあたったが寒さと食糧不足で水腫に倒れ悲惨を極めたと記録されている。その約半世紀後の1855年、再び蝦夷地へと渡った津軽藩士らに、幕府はコーヒー豆を支給した。そこで函館奉行の通達が登場する。「和蘭コーヒー豆、寒気を防ぎ湿邪を払う」とその薬効を説き「黒くなるまでよく煎り、細かくたらりとなるまでつき砕き二さじ程を麻の袋に入れ、熱い湯で番茶のような色にふり出し・・・」と飲み方まで指南しているという。北海道稚内、宗谷公園に「津軽藩兵詰合の記念碑」がある。この記念碑がコーヒー豆をかたどってつくられているのは、その史実に基づいて建てられたからだという。ちなみにこの碑は、コーヒーを飲むことができずに亡くなっていった藩士たちを悼み、その後、薬としてコーヒーを大切に飲んだであろう先人たちに思いを馳せ、津軽藩士の故郷である弘前市の有志が中心となり建立したもので、平成4年(1992年)9月に除幕されました。また、福岡の太宰府天満宮の古文書の中に「寛政9年(1797年)6月19日長崎の井出要右衛門が、かひぃ一包と砂糖一包を奉納す。(紅毛人の飲みせなる煎茶なり)」という文献も発見されている。
最も古い記述には1724年(享保9年)和蘭商館長が参府、この時、幕府関係者との対談をまとめた「和蘭問答」の中に、コーヒーと思われる記述があるとされている。
記述はないが1609年(天正14年) 平戸に和蘭商館が開設され、コーヒーが伝えられたと言われているのが有力かもしれない。オランダ商館(オランダ東インド会社の日本支店)は出島に移される前の33年間平戸に置かれていました。平戸では出島時代の3倍の規模の貿易が行われていたそうです。
オランダ東インド会社(Vereenighde Oostindische Compagnie)VOCロゴマーク入りの古伊万里に煎じたコーヒーをいれれば当時の気分が味わえるかもね。

 

 

●コーヒーの品種
コーヒーの木には約100種余りの品種があるといわれています。人類がコーヒーの木を発見した時点で、既に自然交配をくり返していますので、コーヒーの原種というものは明確ではないのが現状ですが、アラビカ種といわれる品種の説明を簡単に致します。
ナショナル種=ブラジルに最初に移植された品種で1727年に仏領ガイアナからブラジル北部に移植されたが病害虫に弱く生産性も低い。
ティピカ種=在来種ではないかと言われている古い品種です。病害虫に弱く生産性も低い。樹高が高く若葉がブロンズ色で枝の節と節との間隔が長い特徴がある。
ゲイシャ種=エチオピアのゲイシャ種もティピカ種と同様、在来種ではないかと言われている古い品種です。系統はティピカ系。
ブルボン・ベルメーリョ種=1864年レユニオン島(旧仏領ブルボン島)で発見された事からこの名が付いた。ナショナル種やティピカ種より樹高が高く収穫効率が悪いので現在では少なくなった。枝の節と節との間隔が短く、赤い果実が結実する、実の中にある豆が丸いのも特徴である。
ブルボン・アマレーロ種=ブルボン・ベルメーリョ種の改良品種で生産性が高く、外見は似ているが樹高は更に高く、黄色の果実が結実するのが特徴である。
スマトラ種=インドネシアのスマトラ島で発見されたことが名前の由来。スマトラ島原産のこの品種は、ナショナル種より背丈が高く樹勢が良いがあまり普及していない。
アルーシャ種=樹高が高くて枝が上を向いている。若葉はブロンズ色をしている。
ムンドノーボ種=1943年にブラジルのサンパウロ州(旧ノーボ・ムンド)で発見された樹高の高い品種であるが、ブルボン種とスマトラ種の交配種と言われている。ブラジルでは、農事試験場で生産性向上を目的に品種改良を重ね、一時期ブラジルの主要栽培品種となったこともある。
セラ種(ジェマ種)=1935年にブラジルのサンパウロ州アメリコ・デ・カンポス市で発見されたブルボン種の突然変異種。木の外見と果実はナショナル種に似ているが、種子が緑色ではなく黄色であったことから、他品種の豆と混ぜると見た目が悪くなるために普及しなかった。
マラゴジッペ種=1870年にブラジルのバイーア州マラゴジッペ市で発見された品種で、ティピカ種の突然変異種と言われている。非常に大粒な種子を持つのが特徴です。
カトゥーラ・ベルメーリョ種=ブルボン種の突然変異種で、遺伝的もしくわ病的要因で樹高が低い。ブルボン種同様の果実や種子を持つが樹勢が弱く、収穫量が多いとすぐに木が弱ってしまう特徴を持ち、密植型栽培に用いられている。
カトゥアイ・ベルメーリョ種=ムンドノーボ種とカトゥーラ・ベルメーリョ種の交配種カトゥーラ種より生産性が良く、赤い果実が結実する。樹高が低い品種のため収穫が楽に行える。密植型栽培に用いられ3年目から収穫が可能。生産性が非常に高いことから最も普及している品種。
パチェ種=ティピカ種の突然変異種で樹高が低い品種。高地栽培に適している。
ケント種=インドのケント氏が発見。ティピカの突然変異ともいわれている。
コーヒーの品種名は、まだまだあります。IAPAR 59、K20、K7、S288、S795、SL1、SL10、SL14、SL17、SL18、SL19、SL2、SL26、SL28、SL3、SL34、SL6、SL9、アカイア、アカイア セラード、アテン、アラブスタ、アルーシャ、アングスティフォリア、イエローイカツ、イエローカツアイ、イエローカツーラ、イエローティピカ、イエローブルボン、イカツプレコース、イカワンデンデ、イバイリ、ウスダ、エスリニ、エレクタ、オバタン、オールドチック、オーロベルデ、カウィサリ、カウウェリー、カチモール、カチモール カスティージョ、カチモール コロンビア、カツカイ、カリペ、カリマス、カルティカ、ガルニカ、ケント、ゲイシャ、コラムナリス、コングスタ、ゴイアバ、サンベルナルド、サンラモン、ジャクソン、ジャバニカ、ジュンベル、スマトラ、セラ、セレクション 9、タビ、ダレ、チモールハイブリッド、ティピカ、ティムティムバランギリ、テキシック、ディジャアルゲ、デバマシー ハイブリッド、トゥピー、トパーズ、ナナ、ハラー、パカマラ、パチェコムン、パチェコリス、パーカス、ビジャサルチ、ビジャロボス、フレンチミッション、フロントン、ブルボンLC、ブルボンマヤゲス、ブルーマウンテン、ブロンズ、プープルアセンス、ボゴールプラダ、マラゴジーぺ、ミビリッチ、ムルタ、ムンドノーボ、モカ、モンテクリスト、モーリティアナ、ユーゲノイデス、ラスナ、ラテロ、リマニ、リロイ、ルイル11、ルビー、ルメスダン、レッドイカツ、レッドカツアイ、レッドカツーラ、レッドブルボン、レンピラ、など。どうしてこんなに沢山の品種があるのか?それはコーヒーを生産できる国の地形・地質・気候・栽培方法・収穫方法・対病虫対策などから生産性に適した木を育ててきた結果にあると思います。人為的品種改良されたものや、自然交配してしまったものもあれば、突然変異種だと言われる種類など・・・品種や起源・系統・分類も現段階ではかなりの不確定要素があり確実では無い事を理解していただきたいです。コーヒーのエチオピア起源説を信用すれば、エチオピアのティピカ種とゲイシャ種が現段階では原種に最も近いとされている。

 

 

●コーヒーの農薬について
2006年5月29日から食品衛生法の改正により、残留農薬等の基準値を新たに定めたポジティブリスト制が施行されました。本制度により全ての農薬や抗生物質・合成抗菌剤等について、加工食品を含む全ての食品が規制の対象となり、基準値を超えた食品の販売等は原則禁止となりました。残留基準値が設定されているのは約880項目、その多くは0.01ppmという厳しい基準が設定されています。ちなみにppmとは、量の単位ではなく、濃度・割合を示す単位です。0.01ppm=mg/Lは、1億分の1を示します。0.01ppm=0.000001%であり、分かりやすく説明すると、100gの農作物に農薬が0.000001g残留している濃度になります。例えると25mプールにスプーン一杯程度の量が溶けている時の濃度と同じくらいです。コーヒーも生豆の段階で検査対象になっています。ちなみにコーヒーの場合、生豆に残留があったとしても焙煎によって、ほぼ全量が消失するために農薬による健康被害のリスクはほとんどないと言われています。
社団法人・全日本コーヒー協会の対応は以下の通りです。
第16回ポジティブリスト制度への移行
・残留農薬等の規制制度の改定(ポジティブリスト制度への移行)とコーヒー業界の対応について
平成18年5月29日から食品衛生法の一部の改正が施行されることにより、残留農薬等の規制の制度が、いわゆるポジティブリスト制度へ移行することに伴い、コーヒー豆についても残留農薬等に対する基準値の摘要範囲が大幅に拡大されることとなる。このため、コーヒーの生産・流通・消費の各段階において、制度移行に伴う混乱が生じることのないように、社団法人・全日本コーヒー協会では次の対策を講じ、叉は講じることとしている。
1.日本政府及び全日本コーヒー協会は、国際コーヒー機構の会合において、日本で新しく導入されるポジティブリスト制度の内容について、文書の配布と説明を行いコーヒー生産国を含む参加国に周知徹底させた。
2.また、全日本コーヒー協会のホームページにポジティブリスト制度の英文の解説を掲載しコーヒー生産国の関係団体、取引 先等の参考に供してきているところである。
3.全日本コーヒー協会では、「日本のコーヒー豆供給国におけるコーヒー栽培実態に関する調査」を実施し、日本のコーヒー豆供給量の概ね全てをカバーできる24のコーヒー生産国において農薬の使用の実態把握に努めた。
4.従来から、全日本コーヒー協会は、検疫所が行うモニタリング検査とは別に、自主検査を実施してきたが、今後は、新しいポジティブリスト制度の主旨に沿って、上記の実態調査に基づき使用が確認されている農薬及びモニタリング検査に準じた幅広い農薬等の分析検査を行うこととにした。
5.今後も、上記と同様な調査や広報活動或いは自主検査を、必要に応じ継続的に行っていくこととしている。
以上により、日本に供給されるコーヒー豆について、食品衛生法で定める新しい規格基準(ポジティブリスト制度)に適合したものが確保でき、消費者にコーヒーを安心して飲んでいただけるものと考えている。
以上、社団法人・全日本コーヒー協会の通達文です。

 

 

●ベートーベンのコーヒー!
15世紀ごろに中東を経てトルコからヨーロッパに伝来したコーヒーは、紅茶に匹敵する飲み物として定着していきました。イギリスと対立していた独立前のアメリカは、紅茶と違って関税がかからないコーヒーを愛飲するようになったという話があるほど、コーヒーは人々の生活に定着していたようです。ベートーベンが活動の拠点としたウィーンは、コーヒー伝来以来のコーヒー文化発信地の一つでした。ウィーンに上洛したベートーベンはコーヒーの魅力に取り付かれ、毎朝きっちりと60粒の豆を数えトルコ式ミルに入れ丁寧に豆を挽き、濃厚なコーヒーを楽しんだと言われています。
このトルコ式ミルとは、真鍮製の丸い筒状のものです。ドイツではベートーベン・ミルと呼ぶこともあるようです。60粒のコーヒー豆はいったい何グラムなのか?スクリーンサイズやローストによって重さが異なりますが、量ってみると大体8g~10gぐらいです。
また、ベートーベンと同時代を生きたフランスの政治家タレイランは、優れた手腕を持つ外交官であると同時にフランスでも有数の美食家として知られています。タレイランの残した言葉として有名な「悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように清く、恋のように甘い」があります。この言葉は、美味しいコーヒーを飲んだときの感嘆の言葉であると伝えられています。ベートーベンは、タレイランに匹敵するほどコーヒー愛好家だったのです。
さらに、ベートーベンに憧れたシューベルトはベートーベンに会いに行ったがあがって何も喋れず、ベートーベンも耳が聞こえず、会話も無かった。これが唯一の出会いになった。実はベートーベンとシューベルトは3年間同じ喫茶店に通っていたが、ついに一度も会うことが無かったそうです。

 

 

●バッハのコーヒーカンタータ!
バッハは、カンタータ第211番でコーヒーをその主題に取り上げています。
コーヒーカンタータと呼ばれるその曲が発表されたのは1732年ごろだと言われています。バッハ以外にも2~3人の作曲家が曲をつけたといいます。
当時コーヒーを飲むと不妊になるといって、ご婦人にはコーヒーを飲ませないようにしようという動きがあったようで、バッハはコーヒーカンタータで、やんわりとそんな世間のコーヒー論議を皮肉っています。
若い娘のリースヒェンに、頑固おやじのシュレンドリアンが、何とかコーヒーをやめさせようとするやりとりから成り立っている。
コーヒーをやめなさいと言う父親に対して、娘リースヒェンはうたう。
「おおー! コーヒーの味わいのなんと甘いことよ! 1000のキスよりも愛おしく、マスカットぶどう酒よりもはるかに甘い!私はコーヒー、コーヒーをやめられない。」
父親シュレンドリアンは、うたう!
「もしおまえがコーヒーをあきらめないなら、結婚パーティーには行かせないぞ。散歩に行くことすら許さない。」
娘リースヒェンはきっぱりとうたう。
「ぜんぜんかまわないわ、コーヒーさえくれたらね。」・・・
ちなみに親父の名前シュレンドリアンには“因習”という意味があるそうです
もともとは「おしゃべりをやめてお静かに」という曲名であったのが、今では「コーヒーカンタータ」として有名になっています。
バッハの死後、その遺品リストの中には、楽器や楽譜と並んで、5つのコーヒーポット及びカップが含まれていたそうです。

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